祝!越高90周年記念メッセージのページ

2015年9月27日〜
おなじみの名無しさんから、越高90周年を記念してメッセージをもらいましたので
新設ページ化しました。
本人曰く、公式サイトからのリンクとのことなので、柄にもなくちょっと小綺麗な感じで
まとめてみました。記憶違いや不適切な文章等あるかもしれませんが、そのまま載せます。

越高新聞

2016年5月4日(93〜98号)、2017年1月28日(99〜100号)
越高90周年を記念して、歴代の「越高新聞」を掲載いたします!

第93号 昭和53年7月20日



第94号 昭和53年12月23日



第95号 昭和54年3月10日



第96号 昭和54年7月21日



第97号 昭和54年12月24日



第98号 昭和55年3月11日



第99号 昭和55年7月19日



第100号 昭和55年12月24日



第101号 昭和56年3月10日



第99号〜第101号 あとがき

たどたどしい記事だって、おぼつかない企画力だって、10代の瑞々しい感性の賜物。
どんなに人生経験を踏んだって、今となっては決して書けないもの。

そんな貴重で懐かしい越高新聞を共有したいとの思いがあり、電子化作業に
取り組んでみたものの、改めて確認すると99〜101号の3つを所持していない。

運命の悪戯なんて言うと大袈裟になるけど、記念すべき100号(昭和55年12月)を
前にして、僕ら世代は引退した。
代わってそこを担う後輩たちに対する嫉妬や羨望といった感情が、当時あったかも
しれないのだが、100号周りを軽んじるようなことは決してないはず。

まあ新聞部メンバーに声をかければ何とかなるさと、安直に構えていたものの
問題の3つはどうしても見つからない。
「みんな使えないなぁ〜(苦笑)」と、多くは期待せずこのサイトを頼ってみた。

学年同窓会の受付担当が越谷公民館に集まった日、それは唐突にやって来た。
「ホカリ君、サイトで呼びかけてた越高新聞を持ってきたんだけど…」

淡々とした彼女のトーンと、発している言葉の重さがどうにもマッチしない。
しかも女神のように思えたその手の先にあるのは、欠落していた3つの号すべて。
まさか新聞部以外の仲間が、40年近くもこんなもの(笑)を持ち続けてくれようとは…

ってことで、僕らの高校生活3年間をカバーする越高新聞が見事にコンプリート!
えーこさん、スペシャルサンクスです。
そして、そのきっかけを作ってくれた学年同窓会にも感謝!です。 

(提供:Y)

懐かしの学び舎画像 1980年

2015年9月27日
学び舎とは、そのままの姿でいつまでもそこにあり続けてくれる。
そんな幸せな幻想を多くの者が抱いているのは、至極当然のことだろう。

しかしながら、木造校舎がまだ全容を残す最後の年に越高生となり、
新校舎の完成に合わせるかのように卒業していった僕らは、
たった3年という短いサイクルの中で、学び舎がめまぐるしく姿を変えて
いく様を目のあたりにさせられた。

変わりゆくその姿を記録に残そうとした当時のノスタルジックな思いは、
それぞれの手元に今も残る画像と共に愛おしくさえある。 

新たに発掘された懐かしの学び舎画像を、越高90周年という節目に。

校舎4階から校内南側を望む
柔らかさを増した陽の光が、久伊豆さん方から差し始める頃、
それは放課後の始まり。部活動に精を出す者や帰宅を急ぐ者。
青春時代の日常は、何年が過ぎても強烈にインプットされたまま。

IMG001.JPG - 180,741BYTES
img001.jpg:校舎4階から校内南側を望む
 
 

校舎4階から校内北側を望む
陸上の越高と言われた時代からの専用トラックが、新校舎建設の
煽りを受けミニサッカーのゴールに浸食されつつある。
タンポポをはじめとする草花で色鮮やかだった印象のフィールド内も
サッカーの洗礼を受けてか土の色一色に。

IMG002.JPG - 245,773BYTES
img002.jpg:校舎4階から校内北側を望む
 
 

木造校舎2階の西階段
この先の角を左に曲がれば被服室。
ドラム缶仕立ての防火用水が、校舎内の一画にあるという突拍子も
ない光景も、当時を知る者にとってはありふれた日常。
生徒たちの履くスリッパでピカピカに磨き上げられた廊下も印象的。

IMG003.JPG - 184,311BYTES
img003.jpg:木造校舎2階の西階段
 
 

鳩たちのフィールド
鳩たちが運び上げた土や草の種によって、見事なまでに用を足して
いないであろう雨樋。校舎の取り壊しを知った彼らの卒業制作か。
退屈な授業の合間に聞こえてくる「クルックルー」の鳴き声に
癒されたことも幾度となく。

IMG004.JPG - 217,682BYTES
img004.jpg:鳩たちのフィールド
 
 

旧体育館と柔道場
後方には木造校舎の理科棟が未だ健在だが、柔道場の東側にあった
運動部の部室棟は既に取り壊されている。
グラウンドの使用制限に悩まされたこの時代、球技大会の主流は
バレーボール。

IMG005.JPG - 141,214BYTES
img005.jpg:旧体育館と柔道場
 
 

正門付近から校舎を望む
間もなく取り壊される運命の図書館と後方の木造校舎。
中ほどに写る長い仮通路を使った人界戦術によって、新図書室への
書籍の運搬を課せられたのも、この時代の生徒たち共通の思い出。

IMG006.JPG - 329,122BYTES
img006.jpg:正門付近から校舎を望む
 
 

越ヶ谷高校正門
久伊豆神社の参道を経て、ここからアプローチするのが当時の越高
に詣でる唯一かつ正式ルート。
閉ざされたままで今も残るが、僕らの卒業と共に、長きにわたった
その役割を終えていった。

IMG007.JPG - 210,569BYTES
img007.jpg:越ヶ谷高校正門
 
 

宮前橋からの風景
宮前橋の北側から元荒川の下流、ボート部の艇庫方面を眺める。
秋冬の体育の時間に行われた土手の周回走では、左手前にある
ドラム缶の向こう側を、それぞれが勢いよく駆け下りて行った。
現在は、この画像の目の前を新宮前橋が横切っている。

IMG008.JPG - 187,521BYTES
img008.jpg:宮前橋からの風景